2011年8月7日日曜日

待ち臨んでいる人たちの救い

ヘブル8:28
「彼を待ち望んでいる人たちの救いのためにこられるのです


イエスキリストは、幕屋で何度もいけにえをささげる祭司としてではなく、ご自分をいけにえとして神にささげ、人々の罪を購うためにこられました。

イエスキリストはご自身の血によって、ただ一度まことの聖所に入り、永遠の罪のあがないを成し遂げられたのです。

ですから、イエスキリストの十字架を信じるものは、永遠のいのちを受けることができるのです。
イエスキリストは、この新しい契約の仲介者です。

イエスキリストを信じる私たちは罪が購われたのですから、古い契約の違反が取除かれたので、今度は、神に召された者として永遠の神の国に入ることができます。

そのために、イエス様は再び来られます。
私たちは、罪赦されて、神の国の相続者としてふさわしいものに変えられながら、イエス様の再臨を待ち望んでいるのです。

新しい契約と言われた

ヘブル8:13

「神が新しい契約と言われたときには、はじめのものを古いとされたのです」

エレミヤ書31章31節からは、神が新しい契約を結ぶことが預言されています。
新しい契約とはイエスキリストの十字架による罪のあがないと救いのことです。

古い契約とは、旧約聖書の律法を守ることによる祝福でした。しかし、律法は重要ですが律法を与えられたイスラエルの民は守ることができませんでした。

また、字面を守っていれば良いのではありません。
ポイントは、信仰です。神を信じる信仰です。

神様は愛の方ですから、守れなかったイスラエルの民にも、私達すべての民族にも良いものを用意されたのです。新しい契約です。

新しい契約は、律法という文字に書かれたものを、学んで守るのではなく、私たちの心に書き付けることをされました。
私たちは、神様に心を向けたとき、私たちの思いに神様が働き、御言葉に従うようにされます。

それは、私たちの心に新しく書き付けられているからです。忘れないようになされたのです。
古いものが悪いのではありません。新しい契約は、古い契約を超えて祝福が伴うものです。

キリストのとりなし

ヘブル7:8

「キリストは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです」

イエス様は、メルキゼデクの位に等しい祭司と書かれています。
祭司は神様にお仕えする人です。

神様は、イエス様はとこしえに祭司であると誓われました。
神様の誓いは決して破られることはありません。永遠です。

イエス様は、永遠に存在され、生きておられ、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
ですから、イエス様を信じる、私たちを完全に救うことができるのです。

求める人は、いつも生きておられる、イエス様の御名によって祈りましょう。
1回ちょっと祈ったから終わりではなりません。祈りは続けることが大切です。

エス様が必ずとりなしてくださいます。
信じて必ずとりなしてくださると口で告白して祈りましょう。

もっと良いことの確信

ヘブル6:9
「あなたがたについては、もっと良いことを確信しています」

ペテロは、キリストの教えについて、成熟を目指して進みましょうと言っています。
信仰は成長するのです。成長して、神に近づいていくのです。

私たちは、神に似せて造られています。
神そのものではありませんが、神様にかたどられています。

つまり、私たちは神の祝福を受けるように、神に似せて造られたのです。
神様に従って進んでいくとき、私たちは神の恵みを受けるのです。

ところが、現実的にはいろいろな困難や問題が襲いかかってきます。
信仰の妨害があります。いわゆる「アタック」ですね。

しかし、このことは、神様がいなければ最悪ですが、神がいればこれは信仰のトレーニングです。
トレーニングは、厳しいですが、必ず助けがあります。
そして、トレーニングを終えると、もっと上の段階に成長するのです。

現実に負けてはいけません。
厳しければ厳しいほど、信仰に立ってください。
神が働いて、もっと良いことが起こるのです。

良い物と悪い物を見分ける感覚

ヘブル5:14

「堅い食物はおとなの物であって、敬虔によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です」

問題によっては、子供でも対応できるものがありますが、大人でなければ対応できないことが多くあります。特に複雑な、難しい問題はそうです。

しかし、大人であっても対応できない物も沢山あるのです。その時どうしますか?
クリスチャンは、御言葉によって対応します。

聖霊様が、問題があっても、事前にいろいろな形で示してくださいます。
聖書の御言葉によって、預言によって、祈りの中で、平安や不安、摂理、人を通してなどです。

例え問題は示されても、私たちが従わなければ、対応できないのです。従うことは重要なのです。
この時、敬虔、つまり、信仰によって良い物か悪い物かを見分ける感覚がポイントです。見分けて対応します。

この見分けの感覚は訓練できます。まず、聖書を土台に見分けるのです。
聖書に書かれているか、聖書的かどうかなどです。
そして、祈りです。祈って神様に聞くのです。

また、実際的確証があるかどうかも、重要です。
見分ける感覚、霊的な感覚を、信仰を通して訓練していきましょう。

今日御声を聞くなら

ヘブル4:7

「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」

創世記には、神様が6日間で世界を創造され、良しとされたとかかれています。
特に、6日目にはアダムとエバ、人を創造されて、非常に良かったと語られています。

そして、7日目に安息に入られました。6日までは夕があり、朝があったのですが、7日には夕があり、朝が書かれていません。

つまり、神の安息は、今も続いているのです。
ところが、この安息の間に、人は神を裏切り、エデンの園を追い出されました。

人の安息は、エデンの園にあるのです。神の国と言ってもいいでしょう。
しかし、私たちが、悔い改め、神を求めるならば、神の安息に入ることができます。

悔い改めた時が一番良い時なのです。
神は、安息を終わりにされていはいません。私達を待っておられます。

神の声を聞いたら、心を開き、神のもとに行きましょう。
神様はいつでも、手をひろげ、私達の来るのを待っておられます。

大胆に恵みの御座に近づきましょう。
今日がその時です。今がその時です。

忠実に治められる

ヘブル3:6

「キリストは、御子として神の家を忠実に治められるのです」
御言葉に忠実であることは重要なポイントです。
モーセは神の家全体に忠実でした。

イエス様は、自分を世に遣わした神に忠実でした。
神の言葉に忠実であることは、2つの意味で重要です。

第1は、忠実に神の言葉に従う者を通して、神様の計画が表されるからです。
神の言葉は必ず成就しますが、妨害もあるのです。

サタンは、人の思索や感情に働きかけて神の計画の実現を妨害します。
ですから、妨害にめげすに神の言葉に従う者は、主の計画の表れを見るでしょう。

第2は、神の言葉に従う者は神の守りと助けがあります。
神の計画は神が成就するのですから、御言葉に従う者は神が守られ、神が助けるの
です。

困難があっても、忍耐が与えられ、脱出の道も用意されるのです。
私たちが確信、希望による誇りを終わりまでしっかり持っていれば、私たちがイエス様が治める神の家になります。

聖霊が分け与えてくださる賜物

ヘブル2:4
「みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました」

イエスキリストの十字架による購いと救いは、私たちに与えられた恵みです。
これは、イエスが直接、ユダヤ人に語られましたが、弟子たちが伝えてくれました。

そして、神もしるしと不思議と様々な力あるわざにより証明され、また、私たちに与えてくださる聖霊の賜物によって証しされました。

私たちに分け与えられた賜物によって、福音が証しされるのです。
つまり、与えられた賜物を私たちが用いることによって、生きて働くイエス様のわざが現れるのです。
Ⅰコリント12章に、私たちは9つの賜物の一つ以上が与えられていると書いてあります。
主に従い、感謝して賜物を用いていきましょう。

私があなたを生んだ

ヘブル1:5
「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ」



神は、イエスキリストを終わりの時代に遣わして、私たちの罪のきよめを成し遂げてくださいました。
神は、御子であるイエスを十字架につけるほど、私たちを愛してくださっているのです。

私たちが生きていることがそれ自体が、神の恵みであり、奇跡でなのです。
神以外には、私たちをこの世に生み出すことはできないし、神によらなければ私たちが命を全うすることもできないのです。

私たちの命は、神から与えれたものです。ですから、神からの一方的な恵みを受けているのです。
つまり、私たちは、神の恵みの中で生きているのです。

神の恵みによる命ならば、神の恵みによって生きようではありませんか。
御言葉に従い、神の恵みを常に受けながら、神に感謝しつつ、神の祝福を信じて生きていきましょう。

奴隷以上の者、愛する兄弟

ピレモン1:16
「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち愛する兄弟としてです」




多くの方は、今の生活は望ましくないが続けて行くしかない、脱出できないと考えています。
オネシモもそうでした。奴隷ですから解放されることは絶対に不可能でしょう。
しかし、生ける神様がいるのです。

オネシモは他の奴隷と違っていました。
主を信じていたのです。主を信じて、囚人のパウロに仕えていたのです。

神様に従う時、人の目には不可能に見えても、変わるのです。
パウロはピレモンにオネシモを奴隷からの解放どころか兄弟として見て欲しいと言っています。

信仰は、生活を変える鍵です。
神を信じて、祈り続けていきましょう。

良いわざに励む

テトス3:8
「それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるため
です」


私たちは、私たちの救い主であるイエスによって、聖霊を豊かに注がれました。
それは、私たちが何か正しいことをやったからではなく、イエスキリストを信じたからです。

イエスキリストの恵みによって、義と認められ、永遠の命を与えられて、神の相続人となるためです。

私たちは、イエスキリストにふさわしい者となるために、信仰の訓練を受けています。
良いわざに励むとは、神の言葉に従って信仰の対応をすることです。

心がけると言うのは、続けていくことです。
心配しないあわてないで、神が遅れず働かれることを信じましょう。

神の言葉に従って、信仰の訓練を受けていきましょう。

健全な教えにふさわしい

テトス2:1
「しかし、あなたは、健全な教えにふさわしいことを話しなさい」



聖書は実に具体的に私たちに語っています。
例えば、老人たちには、自制し、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であること
年長の婦人には、敬虔で良いことを教えるように
若い婦人には、夫や子供を愛し、慎み深く、家事に励み、優しく従順であるように
若い人々には、思慮深くあるように
などです。

健全な教えである聖書を私たちの考えの土台にする必要があります。
なぜなら、聖書は誤りない神の言葉ですから、真理に従うことで、神の祝福を受けるからです。

また、、イエス様が十字架にかかられたのは、私たちをすべての不法からあがないいだし、良いわざに熱心なイエスの民をきよめるだからです。

神のことばは、私たちを神にふさわしい者に変えてくださいます。

口と行い

テトス1:16
「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行いでは否定しています」

彼らと言うのは、神の前に不正な人々のことで、不信仰な人たちです。
反抗的で、空論に走り、人を惑わし、不品行とも書いてあります。

こういう人を見分けるポイントは、「行い」です。神の言葉を守るかどうかです。
自分を基準にして考えると、私たちは間違ったり、自分をつい甘やかしたりしてしまいがちです。

しかし、神のことばを基準にしたとき、正しいか正しくないかは、はっきり聖霊が語ってくださいます。
この時、祈りです。祈って神に聞くことです。必ず応えてくださいます。

神の言葉に従う時、私たちは、どんなに平安で、祝福に満ちたものかを体験することができます。

御言葉を伝える

Ⅱテモテ4:2

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」

ヨハネの福音書にあるように、ことばは、神とともにあり、神でした。
つまり、ことばはイエスさまです。

また、エペソでは御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさいとあります。
ヘブル書には神のことばは、生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く・・・とかかれています。
ですから、神のことばはそれ自体に力があります。神のことば生きていますので、神が働いてくださいます。
神のことばを宣べ伝えることは、神のことばの力のスイッチを入れることです。

時が良いか悪いかは私たちが判断することではなく、神が判断することです。
とにかく、私たち、機会があればは宣べ伝えることが大事ですね。