2011年7月12日火曜日

学んで確信したところに留まる

Ⅱテモテ3:14
「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい」



聖書は、すべて、神の霊感によって書かれたものです。
著者によって文章に個性がありすますが、聖書は、教えと戒め、矯正と義の訓練とのために非常に有益です。
そして、私たちが神の働きのために相応しく十分整えられた者となることが目的です。

今は、終わりの時代と言われています。困難な時代でもあります。
見えるところは、敬虔であっても、実際は神を第1とせずに、自己中心的な人がたくさんいます。

そして、学んではいますが、いつになっても真理を知ることがありません。
私たちは、真理に逆らう信仰の失格者にならないように気をつけなければなりません。

そのためには、神の言葉を学んでしっかりと腑に落ちるようにすることです。
そして、学んだ神のことばに立って確信したところにとどまることです。

自信のない人は、祈ってください。惑わしが多いからです。悔い改めれば、神は許してくださいます。
聖書から多くを学びましょう。、そして、確信をもったことから離れないようにしてください。

悔い改めて審理を悟る

Ⅱテモテ2:25
「神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう」



主のしもべである私たちには、争いは似合いません。
むしろ、反対する人たちを柔和なこころで訓戒することが必要です。

私たちはイエス様を信じて、義と信仰と愛と平和を追い求めています。
これらすべては、神によって持たされるものです。

私たちは、人に求めるのではなく神に求めるのです。
神のカバーに入るためには、まず、悔い改めが必要です。

神は正義の方ですから罪人の言うことはお聞きになりません。
ですから、神に悔い改めて罪の赦しを受けてから、祈りもとめることができます。

私たちが、へりくだって神に聞くとき、神が導いてくださいます。
神は、神を求める者を決して見捨てません。
罪人には悔い改めの心をあたえ、求める者には真理を与えてくださいます。

感謝します。

信仰の戦いと永遠のいのち

Ⅰテモテ6:12
「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠の命を獲得しなさい」


神様は私たちのすべてをご存知です。
楽しみも苦しみも悲しみも喜びも今まで起こってたすべてをご存知です。

私たちは、過去の出来事を変えることはできないし、未来も知りません。
しかし、神様に従って信仰の歩みを続けていくとき、すべてが益に変えられます。

私たちは、神様に信仰を育てられています。滅ぼそうとされてはいません
困難が起こりますが、神がそれを許されたのなら、それは、意味があることです。

私たちは、神様に期待して、信仰の対応をしていくのです。
れが、日々の信仰の戦いです。

戦いで得るのは神の勝利です。私たちは、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和が戦利品です。

老人を敬う

Ⅰテモテ5:1
「年寄をしかってはいけません」

モーセの十戒の中に、父と母を敬いなさいと書かれています。
それは、神が与えられた土地で、長寿であるためですとその理由も書かれています。
父母を敬うことは、命を全うするために重要なことなのです。

神様と私たちは、父と子の関係です。
この関係は、信仰の土台です。
神様に聞き従うことにより、私たちは恵みを受け、平安にすごすことができます。
ですから、神を恐れ敬うことは私たちの人生の方向を決める非常に重要なことなのです。

父や母を敬うことは、命を受け継いだ私たちが、命を全うするために重要な戒めなのです。

年をとってくると、力が衰えたり、体が弱くなってきます。
若い人は、そのことがどんなに不安なことなのかを理解しないまま、自分の尺度で判断しがちです。

年寄りの言葉に謙虚に耳を傾け、不安を共有しましょう。
神様は、愛の方です。そして、老人であろうが、若人であろうが、男女の別なく公平な方です。

老人をしからないで返って敬いましょう。

今のいのちと未来のいのち

Ⅰテモテ4:8
「今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、全てに有益です」



私達は、今の人生が主の祝福に満ちたものであり、また、この後、永遠の命を受けていく者です。
この時に、重要なポイントは、敬虔、つまり、神を恐れ敬う信仰です。

信仰とは、神を信じ、神のことばに従うことです。
神のことばを握って、しっかり立っている時、全てが益に変わります。

失敗だったと思われることが、返って、成功の元になり、悪いことが起こったと思われたことが、返って、そのことのゆえに救われることがあります。
神のことばは、逆転の勝利の鍵です。

神のことばに従って、今も、未来も主の祝福を受けていきましょう。

神の家とは生ける神の教会

Ⅰテモテ3:15
「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です」




イエスキリストは教会のかしらであり、教会はイエスキリストの身からだです。
そして、私たちは、イエスキリストの身からだの一部です。
教会は単なる建物ではないのです。教会は神の家です。

エペソ書1章には、教会はキリストの体であり、教会にはキリストが満ちていると書かれています。
教会につながることは、生ける神キリストにつながっていることです。

教会に行くことは、とても重要な意味合いがあります。
つまり、キリストの守りの内に入ることであり、キリストの恵みを受けることです。

教会には生ける神のみわざがあらわれ、神の真理の土台です。
ですから、すべての働きが教会を土台として行なわれる必要があります。

教会を土台として働きが行なわれるとき、生ける神の栄光が現れるのです。
教会観をしっかり持ちましょう。

全ての人が救われて真理を知る

Ⅰテモテ2:4
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」


神は唯一です。神と人との仲介者も唯一で、それは、人としてのキリスト・イエスです。
ですから、イエス様を除いて仲介者はいません。
カトリックのマリヤのようなとりなしの霊的存在は聖書に書かれていませんので、聖書に反しています。

さて、イエス様は、すべての人の購いの代価として、ご自身が十字架に架かりました。
これは、神がすべての人の救いを計画しておられ、すべての人の身代わりに、罪のないイエス様の十字架の死を購いの代価として受取られたのです。

それは、神様から離れてしまい、罪の中にいる私たちが、イエスキリストを信じる信仰によって、真理を知り、永遠の命を受けるためです。

私たちは、神様に愛されています。それには、例外がありません。やせている人だけとか区別はないのです。

イエス様を信じて、更に祈り聞き従いの歩みを続けましょう。

目標は愛

Ⅰテモテ1:5
「愛を目標としています」

私たちは、目標に向かって歩いています。大小いろいろな目標があるでしょう。

はっきりした目標に向かって進んでいるとき、私たちは問題があっても、頑張ることができます。
逆に、目標を持っていない時は、ふらふら場当たり的で、時間を無駄にしてしまいがちです。

目標やビジョンをもっていることは、生きるうえでとで重要なことです。
信仰の目標は、愛です。

人々が、神の言葉に従い、互いに愛し合い、心にイエス様の福音に愛がしっかりと根づいていくことです。
神の愛は、私たちにきよい心と正しい良心と偽りのない信仰をもたらします。

そのため、神は私たちの人生に明確はビジョンを与えます。
イエスキリストは、罪人を救うためにこの世にこられました。
テモテは、預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜きました。

ポイントは、神の言葉に忠実であるとです。
タラントとのたとえでは、主人が良くやった忠実なしもべだとほめています。

私たちも、神の愛という目標をもって、神の言葉に忠実に従い、与えられた賜物を用いて、よくやったと神が喜ばれる人生にしたいたいと思います。

たゆむことなく善を行なう

Ⅱテサロニケ3:13
「あなた方は、たゆむことなく善を行いなさい」



私達の歩みの中でいろいろなことが起こり、いろいろな人に出会います。
ひねくれた悪い人やおせっかいばかりして、締まりのない人にはどう対応したら良いでしょうか。
それは、まず、影響を受けないように離れていることです。交際しないのです。

それから、敵と見なさないことで、必要があれば、兄弟として戒めることです。言わなければならないことがあれば、きちんと話して下さい。

そして、私達を見習うように模範を示します。

滅びの子

Ⅱテサロニケ2:3
「滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです」

終わりの日になると、不法の人、自分を神だと名乗り、実際に神の座に着くものが現れます。偽キリストです。

私達は騙されてはいけません。どんなにしるしや不思議なわざを行うことがあっても、人は神にはなれません。
ですから、見分ける必要があります。

見分けの土台は、聖書です。聖書に書いてあるか、聖書的かどうかは、重要なポイントです。そして、祈って神様に聞きいて下さい。

霊的な事柄は、実によって見分けます。どんな実が現れているか、本当に神様からのものかどうかです。
終わりの時代には、偽キリストや反キリストが現れます。そして、クリスチャンを迫害します。
しかし、主が再臨される主の日も近いのです。

神の国にふさわしい者

Ⅱテサロニケ1:5

「あなたがたを神の国にふさわしい者にするため」

私たちは、神様に神の国にふさわしい者に育てられています。
私たちの信仰は、人が、赤ちゃんから子供、大人になっていくように成長していくのです。

ですから、信仰が足りないと嘆く必要はありません。これから成長します。
神に従って歩むとき、信仰が成長し、相互の愛が増し加わっていくのです。
この後に、イエス様が天から再びこられる、再臨の時があります。いつかは神様しか知りません。

しかし、その時は、クリスチャンを苦しめている神を知らない人々やイエスの福音に従わない人々は報復があり、永遠の滅びの刑罰を受けると書かれています。

私たちは、迫害や患難に耐えながら、神への従順と信仰を保っているのは、この神の国のためなのです。

イエス様は、私たちを選ばれた者に相応しく変えてくださいます。
そして、主の力によって、善なる真実な神様を慕う私たちのあらゆる願いと信仰の働きを全うさせてくださるのです。

それは、私たちが主の御名をあがめ、主の栄光を受けるためなのです。
主は信じて、祈り願う者の信仰を成長させてくださり、神の御国にふさわしい者としてくださるのです。

今は成長の途中ですね。
主に感謝します。

2011年7月5日火曜日

駐車場が満車に、でも・・・

S兄が礼拝で証しをしてくださいました。
 
 家族と車に乗って礼拝に行くのですが、いつも、事故が起こらないように祈って運転しています。

 この前の礼拝の時のことです。、玄関で皆を下ろして、地下の駐車場に入ろう考えていました。そして、玄関で下ろしている間に1台の車が駐車場に入っていきました。続いて私も入ろうとしたら、駐車場の表示が「満」となってしまいました。

 「あら~。感謝します。これでは、隣の有料駐車場に入れるしかないな」と1台違いで駐車場にはいれないことを感謝しました。そして、車を動かし始めたら、なんと、駐車場から1台出て来たのです。主に感謝したとたんに、無事に駐車場に入れることができました。
 主の恵みに感謝します。

 今度からは、駐車場のためにも祈りたいと思います。