2011年6月30日木曜日

すべてに感謝

Ⅰテサロニケ5:18

「すべての事について、感謝しなさい」


神様は感謝について、すべての事を感謝せよと言われました。
感謝の気持ちの大切だと指摘されます。

誰かに、ありがとうと言うと気持ちがうれしいし、言われた方も喜んでくれて良かったと思います。
人に対しては、感謝の気持ちであらわすことは、重要です。人間関係も良くなります。

しかし、ここでは、すべてのことに感謝しなさいと、言われていますし、神が望んでいるともあります。
ですから、人ではなく神様に対しては、良いことも悪いこともどんなことも感謝するのです。

すべてに感謝することは、神の言葉に従うことでもありますから、神様が喜ばれます。
悪いことに感謝することは、難しいです。

つぶやいたり、悔やんだり、嘆いたり、怒ったりすることが普通です。
このとき、神様は信仰を用いなさいと言っているのです。悪いことこそ、神に感謝するのは、信仰を用いることです。

悪いことを感謝するのは、神様が喜ばれ、神様の栄光が現れる近道なのです。

主に感謝します。

聖くなることです。

Ⅰテサロニケ4:3


「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」

神は、私たちに汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるために召されました。

私たちが、神の聖潔を得るためには、まず、不品行を避け、自分の体を聖く、尊く保ち、情欲に溺れず、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないこととあります。

そして、主がこれらのことを正しくさばかれるからだと理由が書かれています。

心当たりのある方は、すぐに、悔い改めてください。主は愛のかたですから、悔い改めたら赦してくださいます。

また、私たちは互いに愛し合うことを神から教えられています。
主の御言葉を守って、信仰の対応をしていくことが大切です。
というのは、イエス様は、私たちを迎えにこられます。

号令と御使いのかしらの声、ラッパの音とともに天から下ってこられます。
私たちは、雲の中に一挙に引き上げられて空中でイエス様とお会いします。

これを、携挙(空中再臨)といいます。
この時、残される人がいないように、みんなで、携挙されましょうね。

2011年6月26日日曜日

主が道を開く

Ⅰテサロニケ3:11

「私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて」

パウロはテサロニケの教会の人々が誘惑者により誘惑されることを心配してテモテを遣わしました。信仰からとうざけようとする、誘惑者に注意してください。

しかし、テサロニケの人々は、主にあって信仰に堅くたっていて、信仰と愛についてテモテが良い知らせをパウロに報告しました。

神様は、苦難の中にあって、熱心に神を求めている人々を見捨てません。
私たちは神の子で神の国の相続人だからです。
生ける神が働いてくださり問題の解決と開放がなされます。

私たちは、イエスを信じる信仰によって神の慰めを受けることができます。
私たちの信じている神様は、三位一体の神ですから、私たちの心をご存知です。

道を歩むには、道がないといけません。
しかし、その道をひらいてくださるのは、神です。

神を喜ばせる

Ⅰテサロニケ2:4

「神を喜ばせようとして語るのです」

神様が喜ばれることをしていますか?
私達のしていることは、何でも神を喜ばせるためにしているのです。
人を喜ばせるためではありません。目標は神様です。

神様が喜ばれることは人も喜びます。
しかし、人の喜ぶことは、神様が喜ぶこととは限らないのです。
神様が喜ぶことは、何でしょう。それは、神の言葉を守り従うことです。

神の言葉に従い、信仰を用いることです。
聖書を読む、祈る、感謝し賛美をすることです。
そして、御霊の賜物を用いることです。

そして、これらの信仰の対応の土台にあるものが、主の御声に聞き従うことです。
Ⅰサムエル15:22を見てください。

神が喜ばれることをしましょう。

聖霊による喜び

Ⅰテサロニケ1:6
「多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ」


テサロニケの教会は熱心な人が多くいたのでしょう。
主のことばがあらゆるところに広がったことが書かれています。
そして、神に愛されている、神に選ばれた者と呼ばれています。
私達も主を愛する者ですから、同じように神に愛され神に選ばれた者です。

神に選ばれたテサロニケの人たちは、その信仰は至るところに伝わり、信者の模範になりました。
何故でしょうか?私達と違い特別な人たちだからでしょうか?

彼らは普通の人たちでむしろ、多くの苦難の中にいました。
しかし、聖霊によって喜びがあり、神の御言葉を受け入れていました。

ポイントは聖霊の働きです。生ける神のわざが教会に、そして、個人に現れていたからです。
聖霊は助け主ですから、求めることにより助けてくださいます。
私達も祈り聞き従いの信仰の歩みを通して、聖霊の働きを見て行きましょう。
聖霊は、私達の内側におられます。

2011年6月21日火曜日

親切と塩味

コロサイ4:6
「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい」


私たちは、他の人にどのように対応しているでしょう。

聖書では、いつも親切といっています。
いつもですから、時々不親切な人はだめですね。
ずっと、変わらないで、親切にし続けるということです。

ところが、親切な行動といっていません。
ことばが親切といっています。しかも、塩味の効いたものといっています。

言葉で、多くの人が喜んだり、傷ついたりします。言葉がポイントなのです。

私たちは、悪気がなくても、不用意に相手が傷つく言葉を使って、無用なトラブルの原因になってしまうことがよくあります。
言葉は注意が必要です。どんな時も、相手に対して親切誠実な言葉をかけましょう。
そして、相手に注意を促すときは、塩味の効いた言葉を使いましょう。

塩味を効かせるためには、どうしたらよいでしょうか。
それは、すぐに話すのではなく、まず、一呼吸置いて、相手のことを良く考えて、注意しなければならないことを思いながら、神様に聞くのです。

「神様こんな話をしたいのですが、こんな風に言っていいですか?」と聞いていくと、神様から応答があり、適切な言葉で話すことができるようになります。

塩分は控え目にしてほしいと言っている人は誰ですか?
メタボの人は、そうですが、多くの人はそうではありません。


すべてに感謝しましょう。

主に対して、心から

コロサイ3:23

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」

私たちは相手に対して何かするときは、相手を見てから始めます。
どんな人か、どの程度やれば良いか、自分の都合はどうかなどを考えます。
人に対してするのですから、人を計って、程度を決めて、実行するのです。

しかし、聖書では、どんなことでも相手に対して行なう行為は、主に対してするように心からしなさいと言っています。

主に対してと書かれていますから、神様に対してするようにしなければなりません。
神様は、すべてをご存知ですから、私たちが手をぬけば、お見通しで隠すことはできません。

主はすべてご存知です。
また、神様は聖なる方ですから、私達は、神様に対しては心からする必要があります。

不衛生ではいけません。内容もいい加減ではいけませんね。

つまり、神様に対しては、心からしなくてはならないのです。
心がこもったものは神様が受取ってくれるのです。
そして、その報いは必ず、祝福となって戻ってきます。

心からすることは、相手のためばかりではなく、神のため、そして、自分のためです。
心からするためには愛のが必要です。
そして、愛は結びの帯として完全なものです。

知恵と知識との宝が隠されています。

コロサイ2:3

「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されています」

私たちは、まことしやかな議論によって、誤った方向に行ってしまうことがたくさんあります。

この人の言うことは間違っていない、あの人の言うこともそれなりに正しいとしたら、いったいどうしたらよいのかと悩みます。
人に聞けば聞くほど、議論百出でどうしたらよいか分からなくなってしまいます。

クリスチャンには解決策がいつもあります。しかも、もっとも強力な解決策です。
それは、神様に聞くことです。

神様は、生きて働いておられますので、私たちの祈りに応えてくださるのです。
全知全能なる神様のことばが正しいのです。

神様は語ってくださいますから、語ってくださることを信じていなければなりません。
語りかけの中心は聖書です。御言葉を通して語ってくださいます。

そのほかに、預言や夢、幻、そして摂理、天使や人、メッセージなど色々な方法を通して語ってくださいます。
そして、祈りのうちに、思いに語られます。

聞けないという人がいますが、そういう人は、本当に神様に聞いたのでしょうかね?
神様の語りかけの方法を自分で決めていませんか?
そして、神の時を自分で決めていませんか?

イエスキリストに知恵があり知識があり、私たちの宝が隠されています。
神様から宝をいただきましょう。

教会のかしらはキリスト

コロサイ1:18

「御子はそのからだである教会のかしらです」

教会はキリストのからだです。そして、教会のかしら、つまり、責任者はイエス様なのです。

教会は、キリストが満ちているので、私たちが教会に行くのは、キリストに満たされるためなのです。
献金するためではありません。もちろん、献金は天に宝を積むことですから大事ですよ。

私達が教会に行くは、イエス様の恵み、祝福を受けるためです。
ですから、教会で寝ていたても祝福なのです。

イエスキリストは、神のかたちであり、万物より先に生まれ、万物はイエスキリストによって造られたました。そして、死者の中から最初に復活された方です。

神の本質は、イエスキリストにあり、イエスの十字架の血潮によって、地にあるもの天にあるものを和解させ、神から離れ罪人であった私たちを神と和解させ、罪を購い、罪の赦しを与えてくださったのです。

それは、私たちが聖く、傷なく、非難されるところのな者として御前に立たせてくださるためでした。

私たちが、主に感謝し、主にかなった歩みをして、主に喜ばれ、ある良い行いのうちに御霊の実を結び、聖書や祈りを通して神を知る知識を増し加えていくことができますように祈りましょう。

2011年6月18日土曜日

食事の恵み(証し)

先日、千葉の教会で賛美の奉仕がありました。

千葉までは車でいったのですが、高速ではなく、導かれて、一般道で行きました。
途中、渋滞もあったので上手く昼食が食べられませんでした。

「まあ、途中でお店が見つかるのではないかな」と軽く考えていました。
また、奉仕に遅れてはいけませんから、到着時間を考えるとなるべく目的地の近くで食事をした方が良いとの結論でした。

いくつかのお店を通り越して目的地に近づくにつれて、渋滞が発生していました。
モーセ牧師は、運転していていらいらしていました。
お腹はすいてくるし、渋滞は通り抜けられないしでもう大変になってきました。

そして、祈りました。
「神様、お腹がすきました。これから奉仕があるのです。どうか、安くて美味しいお店に入れますようにしてください」
お腹がすいているだけに、真剣に祈ったそうです。

すると、渋滞を抜けて、交差点を曲がったとたんに、”おはしガスト”がありました。
祈った直後だったので、ここだと確信しました。
初めてのお店だったので、どんな食事かしらと心配でしたが、入って驚きました。

サラダ、カレー、スープが食べ放題でした。
ガストだけに値段も安くてたくさん食べられました。

千葉の奉仕も祝福されました。
賛美もリピータの方がこられ、喜んでくださいました。
また、モーセ牧師のメッセージに握手を求める方もいらっしゃいました。

主の恵みはつきることがありません。

日本信徒前進宣教大会に参加しました。

第26回日本信徒前進宣教大会に参加しました。
総主題は「21世紀の伝道を考える」です。
主講師は、榊原寛牧師でした。
大会は、熱心な奉仕者の方々が中心で、真剣な雰囲気の中、行なわれました。

21世紀と言った時、その特徴を捉えておかなければなりません。

20世紀は戦争の世紀でした。人々は、貧困の中にいました。
国と国の間では、富と権力を求めて戦争がたくさん起こりました。
戦争は悲惨で、軍隊だけでなく、一般の国民が巻き込まれ、多くの尊い魂が失われました。
そうした中で、徐々に平和がもたらされ、経済の安定し、国家主義から民主主義の時代に変わってきました。

21世紀は、平和な世紀となる期待が高まっていました。
現在を見てみると
コンピュータが発展し、インターネットの時代であり、人々のコミュニケーションがグローバルになりつつあります。

一方、リーマンショックなど、経済の混乱も表れています。物が売れないデフレの時代です。
ヨーロッパが統合し、EUができるできたのですが、いくつかの国の経済が破綻するのではないかと言われ、日本では、失業者が増加し、新しい貧困の時代が来ています。
そして、民族・部族間の対立が、中東、アラブ、アフリカで起こっています。

また、大地震、大津波、火山の爆発、地球のあちらこちらで自然災害が数多くなってきています。

聖書では、イエスキリストの再臨の前兆として、ヨーロッパの事や自然災害や経済の混乱、民族間の対立などが書かれています。それは、終わりの時代を現すものです。

私達は、この聖書に注目して、現在の時代を見なければなりません。
反キリストや偽キリストが現れます。

聖書では、自然災害などを「産みの苦しみのはじめ」といい、「目をさましていなさい」と言っています。ですから、今は、終わりの時代、再臨の時代の幕開けといえます。

終わりの時代の大リバイバルに向けた歩みがハッキリ現れてきたのです。
つまり、いよいよ大リバイバルが始まります。

21世紀の伝道はそうした、大リバイバルに向けた伝道といえるのですね。
これは、神の戦いです。この時、困難や迫害もありますが、脱出の道も用意されています。

主が与えてくださった武器を用いていくのです。
聖書に書かれている神の武器をすべて用いて、神の戦いを戦うのですね。

聖書で教会が大発展した時は、使徒達は、イエスの福音といやしなど、御霊の賜物の働きを用いていきましたね。船にのってどこにでも行きました。

現在の状況では、ジェット機で短時間で目的地につけますし、行かなくてもインターネットをつかって、動画で相手と話すことができます。しかも、ただです。

迫害もあり、困難もありますが、神の与えた武器もあります。

伝道のため、信徒は更に前進することができるのです。
神の恵みですね。

平和の神がともにおられます

ピリピ4:9



「平和の神がともにいてくださいます」


旧約聖書をみるとイスラエルの民は、神様がともにいてくださる時は、戦いでも大勝利でした。

しかし、神の言葉から離れて偶像礼拝をしているときは、他国から攻められるなど困難な状況に陥りました。

神様がともにいるといないでは大違いです。

平和の神がいてくださる条件として、旧約時代は律法を守ることでした。

新約時代の今は、聖書から学び、御言葉を受けとり、神の言葉を聞き、神のわざをみて、神の言葉を実行することです。

聞くことは信仰のスタートですが、御言葉を聞いて御言葉にしたがって実行することは、生ける神の栄光を見ることになります。これが、信仰の対応です。

すべてのことに感謝することは、神の言葉を実行することであり、信仰の対応をすることです。

私たちは、平和の神がともにいて、たくさんの生ける神の働きを見ることができます。

国籍は天にあります。

ピリピ3:20



「けれども私たちの国籍は天にあります」

私たちは日本人です。実際のこの世の国籍はそうです。
日本にいると意識することはありませんが、海外に出かける時に日本のパスポートをもっていないとその国に入ることはできません。

また、海外旅行中には日本大使館が助けてくれます。国籍はその国に所属することの証明です。

御言葉にあるように、私たちは霊的には天国人です。

ですから天国人としての守りと恵みがあります。

イエス様が救い主として再臨されますし、私たちをイエスキリストご自身の栄光の体と同じ姿に変えてくださいます。
これは、神様からの恵みであり、私たちの目標です。

私たちは、イエスキリストを信じる信仰を土台に神のことばに立つ必要があります。
土台が強ければ、その上に立つ建物は強いのです。

私たちの土台は神のことばです。

神のことばを握り、祈り聞き従って、全てを感謝して信仰の歩みを続けましょう。

そして、神の栄冠を受けましょう。

つぶやかず、疑わず、祈り続ける

ピリピ2:14

「すべてのことをつぶやかず、疑わずに行いなさい」


私たちは、けっこう、疑います。本当かなと思います。それは、人の言葉が間違いだったり、うそだったりして、そのことでひどい目にあうなどしたからです。しかし、正しいとしたらどうでしょうか。
聖書は誤りない、神の言葉ですから正しいのです。

神の言葉を守って、神様に祈り、感謝して信仰の対応をすると、様々な問題が、神様が働いて、解決されたりします。

たとえ、解決されなくても、神の栄光が現れます。

しかし、聖書の言葉を信じてそれを守る人は、すくないのです。
祈ったらすぐに解決しないからです。

問題を解決するのは、神様です。
私たちは忍耐を持ってその時がくるまで祈るのです。

つぶやいたり、疑っては、神の言葉に反します。
応えられるまで祈り続けましょう。

切なる祈りと願い。祈りきる

ピリピ1:20



「それは私の切なる祈りと願いにかなっています

パウロは、切なる祈りそして願いと言っています。
イエス様もゲッセマネの園で苦しみもだえて、いよいよ切に祈られ、汗が血のしずくのように地に落ちました。

私たちは大きな問題や困難があった時、切に祈りましょう。

祈りっぱなしでも神様は覚えています。
しかし、心から求めて祈った方が聞かれますよ。

大事なことは神様の語りかけがくるまて゛祈ることです。つまり、祈って神のみこころの確信がくるまて゛祈り切ることです。

祈り切る祈りにチャレンジしてください。
必ず神様答えてくださることを忘れないようにしましょう。

新しい人を身につける

エペソ4:24



「新しい人を身に着るべきことでした」

私達は自分の情欲の中で生きて来ました。
つまり、感情や欲望、欲求を歩みを中心にして来ました。
感情や欲求の全てが悪いのではありませんが、情欲を中心にするといつの間にか曲がってしまうのです。
間違いなく歩もうとしたら、神様を中心にして神の恵みの中で歩んで行くことが一番です。

信仰は神を信じ、神のことばに従って歩むことです。

それは新しい人を身に着ることになります。

私達は、古い人が身に着いていますから、エイコラとその考えや思いを捨てなければなりません。
そして、神のことばに立つのです。

新しい人は、怒っても罪を犯しません。

骨をおって働き、必要な時に人の徳を養う言葉を話し、互いに親切にし、心優しい人となって、互いに赦し合うのです。
そして、神の聖霊を悲しませないようにします。

ワァ~。無理だと言って、白旗をあげている人がいますか?
その人は神様に祈りましょう。「私はできませんのでできるようにしてください」と祈ってくださいね。それが信仰の踏み出しですよ。

全てが、感謝ですね。

神の国の共同相続人

エペソ3:12



「大胆に確信をもって神に近づくことができるのです」



私達は、イエスキリストを信じる信仰により、一つの体に連なり約束にあずかる神の国の共同相続人です。

従って、イエスキリストのみからだである教会を通して、神の知恵が示されます。

また、私達は何時でも神様に大胆に近づき祈り求めることができます。

困難になっても落胆することはありません。神様が私たちを助けてくださいます。

神様の時と方法は私達の思いと違っていることがあるかもしれません。

しかし、全てを益に変えてくださる、神の愛に信頼して大胆に神様の前に出て行きましょう。

私達は神の作品です。

エペソ2:10
「私たちは神の作品であって、良い行いをするために造られたのです」

私たちは偶然、この世に生まれたのではありません。
神様は、私たち一人一人を造られました。

私たち一人一人は神様が造られた作品です。

作品ですから製作者の目的や意図、つまり、神様の考えや計画があるのです。

神様は無駄に創造はしません。造られた私達は、神様の深い考えのもとに役割が与えられています。

それは、神の目から見て良い行いをすることです。

つまり、神様から与えられた目的や役割をしっかり果たすことが良い行いをすることです。

神に失敗はありません。神様がお造りになった私たちには失敗作品はないのです。

問題は私たちが神を信じて神に従うかどうかです。

神様は私たち一人一人を大切にしてくださっていますよ。
 
感謝ですね。

教会はキリストのからだです。

エペソ1:23
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」


教会は建物ではなく、キリストのからだです。
ですから教会にいる私たちクリスチャンは、キリストのからだの一部です。

従って、キリストのからだである教会にはキリストが満ちていますし、教会に通う私たちは、満ち満ちたキリストの恵みを受けることができるのです。

私達クリスチャンは、イエスキリストを信じることで、一つに集められ、神の国を受け継ぐ者になりました。私達に与えられた聖霊は私たちに対する保証です。

そして、私達はイエスキリストによって、神のみこころを知る知恵と啓示の御霊を与えれるのです。
キリストのからだの恵みを教会でたくさん受けましょう。

感謝ですね。

2011年6月7日火曜日

腰から右足の痛みがなくなった。

S姉は、いつも元気です。S姉が日曜日の朝に起こったことを

健康で具合がわるいなんて思いもよらないほど元気で、何があっても「これも、神様の導きじゃないかしら」と言って、いつも神様をほめたたえています。

 ところが、土曜日の厚木カリスマ聖会の前の、金曜日に腰と右足が痛くなって動けないほどになりました。カリスマ聖会には御主人も行くことになっていて、どうしようと思って祈っていたら、土曜日にはすっかり直って、お二人でカリスマ聖会にくることができました。

モーセ牧師は、聖会ではS姉が腰や足が痛いとは全く思えないほど普通だったと言っていました。
S姉もまったく痛みがなかったので、いやされたと感謝していました。

すると、日曜日の朝、起きたら腰と足が痛くて痛くて、足を引きずるほどでした。御主人もビックリしたそうです。
それで、すぐにモーセ牧師に電話して、「今日は、腰と足が痛くて教会にいけません」と言いました。

モーセ牧師は、みき子姉と一緒に電話でいやしの祈りをしました。

しばらくすると、S姉はちょっと良くなってきたので、洗濯物を干したいと思い、やってみたら、洗濯物を干すことができました。それで、じゃあ愛犬の散歩をしたいと思い、やってみたら、散歩ができました。

そして、「これじゃあ、教会にいけるじゃん」と思って、モーセ牧師にメールして、「いやされましたので、教会に行けます」と伝えました。

教会では、礼拝の奉仕や、賛美の練習、預言の学びなど全てのメニューをこなして、
みんなで、食事ができました。

主に感謝します。


 

台風が消えた?

 先日の日曜礼拝で、S兄が証ししてくださいました。

息子さんのM君が、学校大好きだそうで、これまで一度も欠席したことがないくらい、毎日喜んで学校にいくんだそうです。

 ところが、台風2号が近づいてきて、ちょうど、月曜日に上陸して、台風が直撃するという天気予報でした。

学校からも、台風が近づいているので、月曜日は休校になるかもしれないとの連絡がきていたそうです。

 S兄は、台風の進路から見て、これは学校に行くのはは無理だろうなと考えていたのですが、M君が楽しみにしているので、一応、M君といっしょに「台風の進路がそれるか、台風が消滅しますように、学校に行けますように」と祈ったそうです。


S兄はうたがいながら祈っていたのですが、M君は真剣に祈っていたそうです。

そうしたら、日曜日に台風が消滅してしまったのです。プレイズ ザ ロード!! 

M君は、元気に学校に行くことができました。
また、S兄は、主の恵みに大いに感謝したそうです。
そして、御自身の不信仰な思いも悔い改めたそうです。

主は私たちの祈りに応えて下さる、まことの生ける神様ですね。

M君。来週も特別賛美してね。

主に感謝します。

「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった」 マルコ4:39

2011年6月4日土曜日

信仰によって神の子供

ガラテヤ3:26

「キリストイエスに対する信仰によって神の子どもです」

私たちはイエス様を信じる信仰により神の子となりました。
神の子は様々な特権がありますよ。

まず神様からこよなく愛されます。
神の子は、神様から守られ祝福を受けます。
そして、神の国を相続することができます。

親は子を愛し、守るとともに、一人前の大人になるように訓練します。

学校に通わせ勉強させたり、スイミングやピアノなどの習い事をさせたり、旅に出して、様々な経験や苦労をさせるかもしれません。

親は子を大事に思えば思うほど熱心になります。
私たちは、信仰による神様の祝福と訓練を守られながら受けていくのです。

この時助けてくださるのが約束の御霊、つまり聖霊様ですね。
祈りもとめましょう。
聖霊に助けていただきましょう。

感謝します。

信仰による義

ガラテヤ2:16

「ただキリストイエスを信じる信仰によって義と認められる」


私たちはイエスキリストを信じることで、神様に正しいと認められるのです。

モーセの律法や習慣、法律や決めごとを守ることだけで正しいと認められることはありません。
法律を守ることは、社会生活を営むための条件です。
それは、国民の生活のためです。
モーセの律法を守ることは神様を信じ神様に従う意味合いがあります。

しかし、神様を信じてなかったら、形式的になってしまいます。
守る行為は大切ですが、キリストイエスを信じる信仰が一番大事なことです。
このことが、神様からの祝福を受けるための基です。
イエスキリストを信じましょう。

パウロの特徴

ガラテヤ1:12
「イエスキリストの啓示によって受けたのです」


使徒パウロは、ユダヤ教には詳しい者でしたが、イエスキリストの福音は知りませんでした。
しかし、イエス様から直接啓示を受けました。
パウロは迫害者でしたが、生まれた時から選びわけ、恵みによって神様に召されていました。

このパウロの特徴のひとつは、神様を熱心に求めていたことです。
神様は、パウロと同じように、私たちを生まれた時から選び分けて、召してくださっています。

神様は私たちに語られますが、それは、私たち一人一人に神のご計画があり、私たちを用いようとされているからです。

私たちは神様に必要とされて選ばれ、この世に生まれたのです。
神様の必要に応えるためには、私たちは神を熱心に求めていることが必要ですね。
 

愛と平和の神

Ⅱコリント13:11
「愛と平和の神はあなたがたとともにいて下さいます」


神様がともにいてくださることは、とても素晴らしい祝福です。
すべてのことがうまく行き、すべてのことが解決して、全く問題がありません。
良いことばかり起こります。

何故なら、私たちの信じている神様は愛と平和の神様だからです。
私たちは神様の愛と平和を受けることができるのです。

私たちは問題がたくさんあります。
どうしたら良いか分からないことが数多く起こります。
その時、ともにいてくださる神様に信頼して、私たちは信仰を働かせるのです。

すべてのことを感謝し、喜びます。
神様が解決して下さることを信じ祈ります。
神の言葉に従いましょう。
そして、神様からの恵みや慰めを受けましょう。

弱さのうちに完全に現れる

Ⅱコリント12:9
「弱さのうちに完全に現れる」


神様の力は弱さのうちに現れ、しかも完全に現れるのです。
神様の恵みですね。

強さより弱さの方がいいのですね。
強いと思っている人は残念でした、しかし、安心して下さい直ぐに自分の弱さを感じることが起こります。

自分を弱いと思っている人は良かったですね。
神様の助けを受ける資格は十分あります。

ですが、これからがポイントです。
大事なことは、自分の弱さを認め、神様が助けてくださることを信じて祈ることです。

多くのクリスチャンが、神様の栄光の現れを見ていません。
祈らなかったり、諦めて祈ることをやめてしまうからです。

諦めずに信仰を働かせて祈ましょう。
これからです。決して遅くはありません。

自分の弱さを誇ります

Ⅱコリント11:30「自分の弱さを誇ります」



普通は誇りを持つものは強さでしょう。人より優れた点を誇りに思うからです。
ところが自分の弱さを誇るというから神様の言うことは違います。

確かに人より優れた点は誇るべきかもしれません。
しかし、人にはそうでも神様の前ではどうでしょう。
人は全地全能なる神様の前では、全く力のないものです。
自分の能力や力など神様の前では何の役にもたちません。
ですから、私たちは神様の前で自分を誇ることはできないし、誇っても意味がありません。
神様が私たちのすべてのことをご存知だからです。

むしろ、へりくだって神様の前では自分の弱いこと認めましょう。
むしろ、自分の弱さを認めることで神様に助けていただきましょう。

神様の助けは偉大です。
弱さは神様の助けのもとです。

感謝ですね。